ババアは1日にしてならず

少女がババアになるまでの日記

いましめ

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解決策のないダメ出しほど自分に堪えるものはない。

なぜ死にたいという気持ちを持つようになったのか私は人生の主題のようにゆっくり考えてきた。その原因の根源さえ掴めれば、抜きとることができるのではないかと思ったからだ。
しかし考えてみてわかったことはどうしようもないことばかりだった。


私が死にたいと思う理由のひとつに、自分がいま立っている場所は自分が本来行きたかったところと比べると物凄く遠くにあり、もう今からそこを目指すなんて並みの人間の頭で考えれば到底不可能な地点にいるんだという絶望がある。別の人間が考えれば不可能じゃないかもしれないが、私の脳は不可能だと判断してしまう限り、私にそれは不可能なのだ。人間、もうダメだと思ってしまったところから失敗は決まっている。それは自己分析の精密さと、思い込みとの二重関係で成り立つ方程式だ。


ならばその思い込みを変えればいいじゃないか!という人のことは積極的に肋を折ってやりたい所存である。「思い込み」という感情や思想、意思は「人格」から成るものだ。また、その人格は「記憶」から成る。記憶は「過去」から成る。掘り返してゆけば全てが違う人間なのに、同じシチュエーションに立たせただけで、おれは簡単にできたのだからお前だって簡単にできる、できないのならお前は簡単な努力すらしてないということだ、みたいな暴論をふりかざす人がいる。めっちゃいる。気持ち悪い。肋を折りたい。
まあでもそんなふうに、暴論を持つ人のことをこんな恨んでしまうあたり、本当は彼らのことが羨ましいだけで、妬んで願った末に弱っている自分がよくわかる。あの人たちのように「なりたい」と思っているのだ、わりと切実に。しかし諦めが99%を占めているからこれだけ悲愴的なのだけど。
ならば諦めを99%たらしめる理由が絶望の他にもあるはずだ。そしてこれに気づいて私は更に絶望し爆笑することになる。


「無常」という世界観をご存じだろうか。松尾芭蕉を筆頭として日本の詩人ほとんどがひっさげる世界観。この世の全ては移ろう、永遠などない、というクソ根暗ネガティヴな世界観である。私はその世界観が大好きなのだと思っていたら、実は大っ嫌いだったのだ。
小学校あたりで、8月はまた来るけど、20xx年の8月はもう来ないのだ、一度きりで、ということを初めて飲み込んだ。それまで、まあまた夏なんて来るから、と特に季節を惜しむことなどなかったのだが、気づいてからは「去年の夏はどこへ行った?」という疑問、悲愴、やりきれない思いで一杯になっていった。1番大きかったのは父親の死かもしれない。8月31日は毎年やってくるが、もう父はこない。
そうやって、世界や自分が移ろいで止まらないことを承知していながら、ここにとどまろうとしないわけにはいかない、無常を必死で拒む、というのが私の性格だった。
しかも大問題なのが、私は自分のその世界観が大好きなのだ。好きすぎて曲にしてる。詩をみていい詩だな〜と思う。気持ちの悪い女である…


イエスしかし、そんなダメ女に世間が優しいわけないのだ。今が大好き!1ミリもうごきたくない!となると大抵の人間は現状維持どころか後退する。私だってわかってるし、みんなもわかってるから責める、責められてぐうの音も出ず。もうそんなこと歴史や経験が教えてくれているのに、苦しいだけなのに、私はそれを手放せない。
それは自分の大好きな部分というのは、アイデンティティとほぼイコールだからであった。アイデンティティを喪失し、自分のどこを好きになればいいのかわからなくなったら、それこそ私はSOSだ。その恐れが、私をここに立ち止まらせている理由である。ここから抜け出すには、1度丸腰になる必要があるのだ。恐ろしいことだ。


…いいや、本当はわたし、肯定してもらいたいだけなのかもな、今も昔も。自分の欠点の詰まった音楽や文章を作り、それを肯定してもらうことで…
話変わるけど芸術ってすごい。なにがすごいって、欠点を「好き!」と言ってくれる人が現れるのが芸術なんですよ、すごいです、欠点ごとまるごと愛してくれるっていう、母の愛並みの力を持ってます。急に敬語なった。
無条件の愛をみんな求めてやまないですよね。え?私だけ?そんなまさか…


女に産まれた人は誰しも感じていると思うけど、「女としての価値」はある時期を頂点にしてからはずっと下り坂だ。性的な対象としてみられるとか、きらびやかでそこにいるだけでいいよメシ奢るよ、と求められるような価値。もちろんそれは俗的な価値でしかないのに、そればかりが自分の価値だと思い込む。というか、社会がそればかり欲しているのに気づいている。「女としての価値」が「人としての価値」とイコールになってしまうという、なってはならない状態に陥ってしまうのだ。まあいまの私なんだけどね!
そうやって「若いから」「かわいいから」「いい子だから」と条件下心丸出しで求められることしか知らない女にとって無条件の愛とは、喉から手、場合によっては足まで出すぞというぐらい、欲しいものなのだ。とにかく、それがあってからが女としてではなく1人の「人としての価値」を自分で育てるスタートになる。あなたがそこにいてくれるだけでいいという、本来母親が与えてくれるものである愛情。なんか親子関係にまで話が飛び火しそうなんでやめよう。涙も引いてきたことだし。

こんな無名でニート志望の女子高生の散文など、だれも目にとめないということは最初からわかっている。わかっていても書く。これは誰でもない自分のために書いているのだ。音楽を作るのもそう。ああ、そうやって自分のために将来のことを考えたり勉強をしたりできないのは何故なのだろう。解決策のないダメ出しはずっと終わらず心の中に溜まるだけだから嫌なんだ。